【TABIZINE 現地特派員による寄稿】
もしあなたがしようとしているのが一人旅なら、そしてその旅先が札幌であったとしたら、旅の道連れに一冊の本を荷物の中に忍ばせて行くことをおすすめします。
その本とは石川啄木の詩集「一握の砂」文庫版。
旅の途中で持参した本に目を通す余裕など、忙しい旅をするあなたには無いかも知れません。でも、すでに主な観光名所を見てしまい、グルメなお店を巡るにも少し時間をもてあましている時には、この本のことを思い出しましょう。どこかで一息入れながらちょっとページを繰ってみる。そして、ゆかりの場所を訪ねてみる。一冊の本に導かれて旅をするというのも悪くはないと思います。

(道庁の池の畔で読書をする女性)
札幌は、JR札幌駅にはスターバックスコーヒー、赤レンガの道庁近くにゴティバといったおしゃれなカフェがたくさんあります。ちょっと一息入れるための場所には事欠きません。

ただ、できれば今回はあえて啄木な気分に浸るために、駅前の雑居ビルなどにある歴史のありそうな喫茶店に入り一息つくとしましょう。駅周辺のどのビルにも大抵、昔懐かしい喫茶店があって(地下にあることが多い)独特の雰囲気を醸し出しています。
口コミサイトで調べたりせず、自分の勘を信じて店のドアを開ける。テーブルがいまだにゲーム機であるのに呆れつつも、ブレンドを注文します。カウンターで新聞を読んでいるサラリーマン氏(探偵かも知れない)が、ちらりと視線を投げかけても軽くかわしておもむろに文庫本を取り出し目線を落とす。するとこんな一編が目に留まります。
「浪淘沙(ろうとうさ) ながくも声をふるはせて うたふがごとき旅なりしかな」
石川啄木 一握の砂
一言に旅といってもいろいろあるわけです。
啄木に浸りきる
石川啄木といえば函館を思い浮かべる人が多いと思います。でも、札幌における啄木は、その漂泊感が半端ではない。宙ぶらりんな人生に対する苛立ちと葛藤と、そして開放感。
彼は明治40年の9月13日に汽車に乗って函館を発ち、翌14日に札幌にやってきました。函館で漸く仕事を得た矢先に大火に巻き込まれ、新たな職を求めて単身旅をしていたのです。啄木の人生というのは薄幸を絵に描いたようなものです。そのあたりの経緯は、啄木の「札幌」という短編小説に綴られていてます。
さて、「一握の砂」を読んでゆくと「忘れがたき人人」の段辺りから函館や札幌までの旅の途上を詠った詩が登場します。秋口の夜汽車のわびしさがひしひしと伝わるような詩が続きます。
「かの旅の夜汽車の窓に おもひたる 我がゆくすゑのかなしかりしかな」
同上
やがて札幌を詠んだ歌が現れる・・・。
そろそろサラリーマン氏のたばこの煙が辛くなってきたあなたは、啄木が二週間ほど滞在した下宿屋の跡を尋ねてみることにします。もしその時雨が降っていたとしたら、ちょうど啄木が到着したのもそんな雨模様の日だったようですから、ぴったりのシチュエーションでしょう。
啄木の下宿跡と淡いロマンス
札幌駅の北口、ヨドバシカメラ前の通りを北に一ブロック歩いた北七条四丁目の札幌クレストビルが建っている場所が、石川啄木が滞在していた下宿のあった所と考えられています。そこまで歩くと、一見したところごく普通のオフィスビルが目に入ります。

半信半疑で建物の入口を入ると、まるで物陰に隠れるように啄木の胸像が収められています。



啄木が下宿していた場所を突き止めたのは、札幌北区役所の方たちのようです。その昔、札幌駅の北口は、繁華な南口に比べて対照的に静かな住宅街でした。今ではすっかり再開発が進んでビルが建ち並んでいますから、啄木が下宿していた簡素な木造平屋住宅がどこにあったのかを探し当てるのはことのほか困難がともなったようです。

啄木は、午後1時過ぎに札幌に到着するとひとまず、友人のいるこの下宿に落ち着きます。しかし、翌日午後には札幌の街を観光して回りました。感性の研ぎ澄まされた弱冠21才の石川啄木が、どのような気持ちで明治の札幌を歩いたのでしょうか。
下宿滞在中は、ちょっとしたロマンスも生まれたようです。下宿の娘、田中ヒサという美しい女性に恋愛感情を抱いて下宿仲間の噂にもなったといいます。しかし幸いというか(妻子がいる!)それ以上の発展もなく、啄木の二週間の札幌滞在は終わります。啄木の小説「札幌」にも下宿の娘が登場し「どこと言って美しいところはないが・・・人好きのする表情があった」と書いています。微妙です。
※田中ヒサさんの写真は札幌市北区役所のホームページの北区の紹介→歴史と文化→エピソード→第9章の中に掲載されています。
偕楽園緑地の歌碑
啄木が札幌の印象を詠んだ歌碑が、この近くにあるのでぶらぶら歩いて行きましょう。
ヨドバシカメラ前の広い通りをこんどは西に進み、突き当たりの細い斜めの路地を入ります。20mほど歩いた右に植え込みがあります。
偕楽園緑地という小さな公園ですが、もとは明治4年に作られた立派な庭園で、日本最初の都市公園だったそうです。偕楽園という名は、もちろんあの天下の名園にちなんだのでしょう。


その公園のペデストリアンを行くと、くだんの歌碑があります。

「アカシアの街樾(なみき)にポプラに 秋の風 吹くがかなしと日記(にき)に残れり」
同上
啄木は丁未歳日誌という日記をつけていて、この明治40年のことは克明に記しています。札幌駅の北側には明治36年に植えられた北大のポプラ並木が知られていますが、啄木にはアカシアの並木も印象的だったんですね。明治5年に日本に導入された「ニセアカシア」は、初夏の北海道で一斉に白い花を付け、むせるような甘い香りが立ちこめます。

この歌碑はまだ新しく2012年のものです。いまだ石川啄木の人気は衰えを知らずというところでしょうか。
公園の北側に清華亭という明治初期の建物があり、建設されて程なく明治天皇が行幸の際に休憩されました。下宿の近くであったこの辺りを、きっと啄木も散策したことでしょう。

(清華亭)
大通公園の歌碑
さて、石川啄木の歌碑がもう一つあります。それは大通公園。
偕楽園緑地からどんどん南に歩いて赤レンガ道庁も通り越して、大通公園まで進む。啄木も歩いて大通公園、そしてテレビ塔の東にある創成川沿いなどを散策したようです。

大通公園は、注意しているといろいろな碑や像が建っていることに気がつきます。そして西3丁目の札幌駅側の茂みにひっそりとした感じで石川啄木の座像が置かれています。

その隣には、啄木の歌碑が添えられています。
「しんとして幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにほいよ」
石川啄木 一握の砂
啄木はここを実際に訪れて、その印象を歌に詠んだのでしょう。明治5年に作られたこの大通公園は、もともと防火対策のためのものだったといいますが、啄木の訪れた年には花壇も設けられました。9月なら、明治20年に日本に導入されたコスモスでも咲いていたかな。そして、現在は中島公園に移設されている優美な豊平館も、この大通公園に面して建てられていました。
おもしろいのは、その時にはすでに名物の焼きとうもろこしがあったということでしょうか。しかも夜。きっと啄木も食べたのでしょうね。あなたはどうしますか。



